2011年02月13日

生いたちの記(1)


 さて、私の生地は福岡県田川市(昭和18年後藤寺町と合体し市制施行)、当時は、伊田町と言った。

 「月が出た出た、月が出た」でなじみの『炭坑節』発祥の地である。草生い茂るボタ山の頂きにたたずみ街を見下ろすと、そこに、やま(鉱山)のシンボルである高い煙突と竪坑のケージが、古ぼけてはいるが昔と変わることなく、凛として突っ立っている。

 だが、石炭産業の最盛期には11万もいた住人もエネルギー革命の波をもろに受け、今では5万5千人と半減し、『つわものどもの夢の跡』、まったくさびれはててしまっている。

 市の事業といえば、もっぱら鉱害復旧にたよっているのが現状である。かっては『青春の門』の舞台となったところでもあり、独特な風土のなかに育まれた川筋かたぎ、気は荒いが単純で義理人情に厚い気風はいまだに根強く残っている。

 そもそも、田川の地名は鷹羽(たかのは)に由来する。古くから日本武尊(やまとたけるのみこと)や神功皇后(じんぐうこうごう)にゆかりの地として知名も高く(風土記)、万葉集にもこの地を詠んだ和歌が7首あり、それらの史跡も散在している。また、鎮西八郎為朝の居城跡も残っておりこの近辺では由緒ある土地なのだ。

 昭和18年3月、街の中心部にある三井田川尋常小学校(戦時中に国民学園と改称)を卒業した。この私立学校では坑夫から所長にいたるまで、いわゆる炭鉱マンの子どもたちが、同じ教室でわけへだてなく勉強させられた。そして校舎は、卒業するまでの6年間に次々と増改築され、最盛時の生徒数はゆうに3000人を超えていた。このように栄耀栄華を誇っていたが、時は移ろい、戦後炭鉱の火が消えるとともに市に移管され、田川小学校と名を変え今日に至っている。

 同年4月、地元田川郡で唯一の県立田川中学校に進学した。時あたかも太平洋戦争のまっただ中であった。そして、中学3年のとき終戦を迎えた。同期の桜は、5クラス300名だったと記憶している。 幸か不幸か、私たちは戦後の学制改革により旧制中学校と新制高等学校とにほぼ二分された形で卒業した。

 在学中は、軍事教練や学徒動員などによって授業もろくに受けられなかったが、戦中から戦後への厳しい試練を通して、クラス仲間はおのずから強い絆で結ばれていったものと思う。学び舎は、北に屹立する香春嶽、南に玲瓏たる英彦山を控えた地、勾(まがり)金(かね)というごくへんぴな田舎村にあった。

 ここで、終戦後のことについて振り返っておかなければならない。昭和20年8月15日は、4年間にわたる太平洋戦争が幕を閉じた日である。

 終戦についていえば、戦後生まれの人たちにとってはただ過去の歴史の一通過点だとおもわれているが、日本帝国が崩壊したまさしく敗戦の日であった。その日を境として生活が一変した。思い出したくないことだが、記憶に残っていることを記しておこう。

 食糧難、主食である米、麦は無論のこと副食のさつま芋などの根菜類も口にすることが困難であった。そのような状態が昭和24年頃まで続いた。また、電力事情が極度に悪くなり夜半には電圧を下げたローソク送電、受験勉強は駅か郵便局でという蛍雪時代を過ごした。

 かくして、昭和23年3月旧制中学校を無事に卒業し、同年4月には熊本工専への進学も決まり、始めて故郷を離れることとなった。その後のことについては、またの機会に。

付記《鷹羽ゆかりの人物》

(1)日本武尊
 記紀に現われた伝承上の英雄。『古事記』では「倭健命」。景行天皇(第12代)の皇子で本名は小碓尊(おうすのみこと)。景行天皇に命じられて九州南部の熊襲「熊襲健(くまそたける)」、出雲健(いずもたける)を討ち、さらに東征し、伊勢神宮の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授けられ蝦夷(えみし)を征討する。帰途、伊吹山の悪神に敗れ、伊勢の能襃野(のぼの)で病没する。その間に草薙剣(くさなぎのつるぎ)の霊力や弟橘媛(おとたちばなのひめ)の入水、尊の没後その霊が白鳥と化し、大和に向けて飛び去ったという。大和政権による地方の平定を一人の勇者の物語として伝えられる。

※草薙剣➯三種の神器の一つ。記紀で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治した八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から出たと伝えられている。日本武尊が東征の折、この剣で草を薙ぎ払ったところからの名とされるが、クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は蛇の剣の意か。のち、熱田神宮に祀られたが、平氏滅亡に際し海に没したとされる。天叢雲剣

(2)神功皇后
 4世紀後半ころの記紀伝承上の人物。名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、仲哀天皇(第14代)の皇后。熊襲征討のため筑紫に赴いた仲哀天皇が神託にそむいて没したのを受け、熊襲を討った。翌年さらに神託によって応神天皇(第15代)を懐妊したまま新羅に遠征し討伐した(三国征討)。帰国後、応神天皇を生み、その即位までの69年間摂政として武内宿禰(たけのうちのすくね)と共に政治を行ったという。

(3)源為朝(1139〜77)
 平安末期の武将。為義の八男、鎮西八郎と称する。13歳のとき、父に鎮西へ追放されたが、九州各地で騒櫌事件を起こし朝廷に訴えられたが償還命令に従わなかった。保元の乱(1156)では父とともに崇徳上皇方に加わり奮戦したが敗れ、伊豆大島に流された。のち追討を受け自害した。後世、琉球にのがれ舜天王(しゅんてんのう)の父になったという伝説が生まれた。

追記

(1)古事記
 奈良時代の歴史書。三巻から成る。天武天皇(第40代)の勅命で、稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習した『帝記』や『旧辭』を元明(げんめい)天皇(第43代)の命により太安万侶(おおのやすまろ)が文章に記録し、壬子・和銅5年(712)に献進。日本最古の歴史書で神代から推古天皇(第33代)までを内容とし、天皇の支配による国家建設という意図により構成されている。

(2)日本書紀
 奈良時代の歴史書。最初の勅撰正史、六(りっ)国史(こくし)の第1、30巻。舎人親王(とねりしんのう)(天武天皇の第3皇子)と太安万侶が編集にあたった。庚申・養老4年(720)完成。資料として『帝記』・『旧辭』のほか寺院の縁起、諸家の記録、中国・朝鮮の史料などを用い、神代から持統天皇(第41代)までを漢文の編年体で記したもの。日本紀。古代史研究の重要史料。

(3)風土記
 奈良初期、最古の地誌。和銅6年(713)元明天皇が諸国に編集を命じ、各地の産物・地理・地名の由来などを漢文で記載。現存するのは常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5風土記で、出雲だけが完本。奈良時代の貴重な史料である。

※参考文献
 日本史人物辞典、日本史年表、日本史事典、広辞苑、大辞泉
posted by しん at 03:04| Comment(6) | 生い立ち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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